綿 in a stuffed brooch

おちょぼ口 

父ちゃんの人生

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菓子パンを選ぶ、若き日の先輩ときよじい。

書く事がないので、父、清和の人生をおさらししてみます。

昭和26年1月に、品川区のこっち側(柄の悪い側)で、江戸っ子の父あきら、秋田出身の母キヨノの次男として産まれました。あきらはすでに◯◯屋でしたが、実家は米屋でした。

4つ上の兄は、あきらの「あき」が入った名前を授かったので、清和は、キヨノの「キヨ」から取られました。このルールで行けば、私の名前は清子か清美になっていて、ロンリーチャップリンを歌うはめになったのでしょうが、父が出前先の表札に「ゆみこ」という名前を見つけ、気に入って、私は無事に、脱キヨできました。私は清くないので、そんな大層な名前つけられても困ったと思うので、ゆみこでいいです。YuMikOと、アルファベットにすると、YMOが入ってるところも気に入っています。

その下に、また4つ下の妹がいます。

目が大きく、おちょぼ口で、内気だけどもひょうきん者で、背が低く、かわいらしい、母性をくすぐるタイプだったらしいので、10代はもてもての日々を過ごしました。

小学生時代の通信簿、担任からの一言にどれも「お調子者である」と書いてありました。中学時代の通信簿がないのは、当時文通してた女子と交換したかららしいです。

芝商業高校に入りたかったものの、お前の成績で行ける区立はねえと担任に言われ、当時は誰でも入れた、某私立高校に進みます。ちなみに、そこは今、東大に進む学生が多く、偏差値の高い、頭のいい男子校として有名だそうです。なので、それを今誰かに言うと、ワウ!頭良かったんですね〜と感心されてしまうそうです。

エレキギターを弾いたり、アニーの試写会がラジオで当たって行ったそうです。遊ぶ町は自由が丘で、すでに、喫煙飲酒はバリバリしていたようです。

高校卒業後、家の仕事を手伝います。主に出前番です。幼なじみを主にした、男組を結成し、実家の向かいの離れに住んでいた父の部屋は、かっこうの溜まり場で、10人くらいが毎晩酒盛りしていたらしいです。母が初めて、そこを訪問したときも、そのくらいの男たちが半裸で雑魚寝していて、どん引きしたとのことです…

スナックのママと付き合っていたのに、気の弱い父は、はっきり振りもせず、うやむやにしたまま、同じ町会の美容院のおばさんにすすめられて、母、恵子とお見合い的なデートをします。父27歳、母23歳くらいの時でしょうか。

初デートは、有楽町でダイハードを観たらしいです。

母は父の実家から歩いて五分のところが実家でした。同じ町内です。当時、母はやせててすらっとしていて、きれいで、お嬢様のように見られていたらしく(彼女もやはりお勤め時代はもてもてだったらしいです)町内中が驚いたそうです。あの札付きの声のでっかい不良と、あの巻き毛の色白が??と。

一応、婚約中だったらしいですが、当時では珍しい、結婚式をする前に妊娠してしまったパターンでした。私も八芳園にいたってことですよ、五ヶ月の胎児として。

結婚式の父のヘアスタイルは、まさかのパンチパーマです。それが流行っていたそうです…ほんとかな…

飲食店の二代目の次男。特にどこかに修行も行っていません。彼は永遠のピーターパンになる運命の元、産まれてきました。

アル中だったため、すぐキレて、母を怒鳴ったり、パンチしたり、とうもろこしを投げ合ったり、ポシェットをライターで燃やしたり、結婚生活はそんなにラブリーなものじゃありませんでした。私が小学1年の時に、独立してお店を持ったので、私と妹ははっきり言って、放っとかれてました。でもトリックがあって、お店は自宅の一階にあるので、決して、鍵っ子だったわけではないのです。いつでも、両親に会える環境でした。普通、父親は朝会社に行き、夜に帰ってくるわけですが、私の場合はオールウエイズです。だって、小学校の職員室に出前に来たりするので、校内で会っちゃうんですよ。父ちゃんと。

公園で遊んでても、向こうをブーンと父ちゃんが走って行く。下校途中、信号待ちをしていると、反対側で父ちゃんも信号待ちをしている。恥ずかしかったです。

私が二十歳くらいの時、父に異変が起きました。なんか顔色が悪くなって、お腹がぼよんとして、あとなんだっけ、なんかがなんかでした。私たち家族がいくら病院に行く事をすすめても、気の弱い父は、絶対Noと言うばかりで途方に暮れているところ、町内のワンオブボス的な、年上の酒屋さんに、だいぶきつく言われて、渋々、やっぱりバイクに乗って、病院に行きました。

すると、相当ハードなことをお医者さんに言われたらしく、今まで見た事のない顔の父を見ました。険しい、真剣、絶望している。そして、まさかの次の診察拒否の電話までかけてて、ちょっと〜!!NO!!と言い聞かせ、彼は病院通いと投薬をすることになりまいた。

後で聞いた話だと、今すぐ入院レベルの重症、このままじゃ死ぬと言われたようです。しかし、大学不登校の娘と、同じくパッとしない娘No.2もいる父は、入院は絶対できないと拒否しました。

なんでしたっけ、肝臓の数値、あれが、赤塚不二夫中島らものエッセイで書いてあった数値より、桁が1個多いくらいでした…あの二大アル中ガイズより、はるか上を行っていた父。そりゃウイスキーが水代わりで、朝も昼も夜も飲んでたらそうなりますよね。

しかし、薬を飲むにつれ、数値は下がって行き、二年くらいしたら、まあまあのところまでに落ち着いたそうです。

そして、それから、一滴もアルコールを飲んでいません。あんなに依存していたのに、相当、おそろしいことをお医者に言われたんだと思います。下手したら余命宣告的なものもされたのかもわかりませんけど、父はおちょぼ口を一文字にして教えてくれません。そして、その後の検診などは行ってくれません。

しかし、生き伸び、60歳の時に、父はベストギフトを授かります。そうです、先輩です。彼の初孫、ぴょこ先輩です。妹の妊娠がわかったときは、まあ産まれたらそりゃ見てやるけどよなんて、強がっていたのに、産まれたら、私たち家族がいままで見た事のないような、笑顔の嵐です。

仕事と仕事の合間の休憩時間にも、足立区にまで行って、孫の顔を見て、帰って来るなんてこともしていました。

どらやきを買いに行くのを口実に、アポなしで妹の町まで行って、今日は出かけてるからだめと言われたことも何回もあります。月に二回は今でも会っています。

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父ちゃん〜!あたいは孫の顔見せてあげられなくてごめんね。人の100倍は努力したけど、だめだったの〜⭐️400万がブラックホールに吸い込まれちゃったわ〜💔

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